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私が値段で選ぶのをやめた日|伝統製法の調味料と、食の選択眼が変わるまで

しぜんのまほう
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バッタは、決まったものしか食べない

子どもの頃、一度だけ、ふしぎに思ったことがあります。

バッタが食べるものは決まっている。

犬も、牛も、それぞれ食べるものが決まっている。

なのに人間だけ、いろんなものを食べる。

なんでだろう、と思いました。

そして、自分で答えを出しました。

人間は高等だから、大丈夫なんだ。

虫や動物は小さいし、人間みたいにいろんなことを考えられない。

だから食べるものが限られている。

人間はちがう。

だから何を食べても平気なんだ、と。

keko
keko
だるま王子
だるま王子

子どもなりに、ちゃんと理屈をつけたんだね

keko
keko

そうなんです。

私は気づいていなかったのではなくて、一度気づいて、自分で蓋をしたんですね。

この記事は、その蓋を開けるまでに何十年もかかった話です。

棚に並んでいるものは、全部「食べ物」だと思っていた

大人になってからの私は、こうでした。

スーパーやコンビニの棚に並んでいるものは、全部食べ物。

口に入れれば、体がふつうに代謝してくれるもの。

疑ったことがありませんでした。

だって、食べ物として売っているんだから、食べ物でしょう。

美味しいというのは、舌に刺激があること。

甘くて、食べると気分が良くなること。

それが美味しいということで、美味しいものを食べれば栄養になる。

そう思っていました。

深く考えていなかった、というより、考える必要があるとすら思ってませんでした。

keko
keko
ジェンダルマン
ジェンダルマン

みなさんは、上記のようなことを考えたことありますか!?

値段が「ものさし」でなくなった

変わりはじめたのは、お金の仕組みを知ってからでした。

くわしくは別の記事に書いたのですが、お金は世の中に決まった量あるものではなくて、銀行が貸すたびに生まれ、返すたびに消えていきます。

私がお金の生まれ方を知った日|信用創造の話と、そこから呼吸に還るまで
私がお金の生まれ方を知った日|信用創造の話と、そこから呼吸に還るまで

増え続けなければ回らない仕組みになっている。

それを知って、いちばん揺らいだのは、実は食べ物のほうでした。

それまで私は、無意識にこう思っていたんです。

値段は、価値を測った結果だと。

安いのはお得。

高いのは贅沢か、そうでなければぼったくり。

でも、値段は価値を測った結果ではありませんでした。

増え続けなければ回らない仕組みが、そのつど出してくる数字でした。

ものさし自体が伸び縮みしていた。

そう分かってしまうと、それだけで選ぶのが不安になります。

じゃあ、何を基準にすればいいんだろう、と。

「伝統製法って、どんなもの?」から始まった

劇的な出来事があったわけではありません。

私が最初にしたのは、調べることでした。

伝統的な製法で作られたものって、どんなものなんだろう。

そこから始まりました。

調べていくうちに、問いが入れ替わっていきました。

「どっちが安いか」から、「これはどうやって作られたのか」へ。

前の問いは、他と較べないと答えが出ません。

だから、いつまでも較べ続けることになる。

でも後の問いは、事実です。他と較べなくても、答えが一つに決まる。

そして「どうやって作られたか」を突き詰めていくと、最後は時間の話になりました。

醤油に二年かけたのか、二か月で仕上げたのか。

味噌を寝かせたのか、麹の働きを早回ししたのか。

キモダルマ
キモダルマ

時間? 材料じゃなくて?

材料も大事です。

でも、材料の違いも、たどっていくと時間の違いから来ていることが多いんです。

時間をかけずに同じような味と品質を出そうとすると、そのぶん何かを足すことになるので。

誰も悪くないのに、そうなる

ここで、お金の話とつながりました。

短い時間で作られたものが安いのは、誰かが悪意を持っているからではありません。

お金が増え続けなければ回らない仕組みの中では、回転を速くした側が有利になる。

それだけのことです。

作り手も、売り手も、それぞれ真面目に仕事をしている。

それでも、時間のかかるものは少しずつ棚から減っていく。

keko
keko

悪い人を探しても、見つからないんです

私はこれを、お金の記事を書いたときにも思いました。

犯人を探しても着地しない。仕組みがそうなっているだけだから。

でも、だからこそ、自分で選ぶ意味がありました。

選ぶ目は、「疑う目」ではありませんでした

ここが、私にとっていちばん大事なところです。

こういう話を知ったとき、いちばん起きやすいのは、疑う目になることだと思います。

これも駄目、あれも駄目。

買い物のたびに裏を見て数えて、一時間かかるようになる。

家族が買ってきたものに何か言いたくなる。外食が怖くなる。

私にも、その時期がありました。

でも、疑う目は疲れます。

使うたびに緊張するし、新しく「危険」と言われるものが出てくるたびに、覚え直さないといけない。

終わりがないんです。

いま私が持っているのは、そういう目ではありません。

時間を読む目です。

ラベルの裏を見て、これは長くかけて作られたもの、これは短く仕上げたもの、と読む。

ただ読んでいるだけなので、疑っていません。

怒ってもいません。

そして一度おぼえると、更新しなくていい。

作り方の原理は、そんなに変わらないからです。

「味が薄い」と感じるのは、性格ではありません

私の両親は、伝統的な製法の調味料を、自分では選べません。

パッケージの裏を見ても、判別できないんです。

表に体に良さそうなことが書いてあると、それなら大丈夫、と思って買ってきます。

そして、昔ながらの調味料を使うと、物足りない、味が薄いと感じるようです。

これを、意識が低いという話にはしたくありません。

舌は、繰り返し入ってきたものを基準にします。

強い味が標準になっていれば、そうでないものは薄く感じる。

性格でも、やる気でもなくて、脳に向かう刺激に対しての反応の問題です。

そして何より、私の舌も、昔はそこにありました。

甘くて刺激のあるものが美味しいと思っていました。

それが普通に栄養になると思っていました。

だからこれは、誰かを見下せる話ではないんです。

私がどこから来たか、という話です。

ダルマ天使
ダルマ天使

基準を持っていないことと、意識が低いことは、ちがうことだよ

安いものを基準に選んできた人が、いざ良いものを選ぼうとしても、
そもそも見分ける基準を渡されていない。

keko
keko

それだけのことなんですよね。

較べなくなったら、時間が余りました

いま、私の買い物は短いです。

醤油はこれ、味噌はこれ、塩はこれ。決まっているので、較べていません。

以前は毎回、値段と量と表示を見比べて選んでいました。

あれは、思っていたよりずっと疲れる作業でした。

危険なものを排除したから楽になったのではなくて、
判断する回数が減ったから楽になったんだと思います。

ここは、けっこう大事なところだと思っていて。

怖さから入ると、判断する回数は増えていきます。

気をつけることが増えるので。方向が逆なんですね。

そして、判断に使っていた分の注意が、余ります。

その余った分が、いまの日々の軽さの正体なんだろうな、と思っています。

健康になったから毎日が楽しい、というよりも、
気にしなくてよくなったから、他のものを見る余裕が戻ってきた。

いまは、家族の分も選んでいます

見分けられない家族のために、代わりに選んで買っていくこともあります。

聞かれたら、こういう見方があるよ、と伝えることもあります。

不思議なもので、選ぶものが減ったのに、世界は広がりました。

おわりに

この記事で言えるのは、ここまでです。

食を変えたから健康になった、とは書きません。

呼吸も、手当ても、暮らし方も、全部が重なっているはずなので、そこだけを取り出して因果にするのは正直ではないと思っています。

私が言えるのは、前提が一つ外れて、扉が開いたということだけです。

値段は、価値を測った結果ではなかった。

それが分かっただけで、棚の見え方が変わりました。

そして子どもの頃に一度だけ思った、あのふしぎが戻ってきました。

人間だけ、なんでこんなにいろんなものを食べるんだろう。

あのとき私は、人間は高等だから大丈夫、と自分で蓋をしました。

いまは、蓋をせずにその問いのそばにいます。

答えはまだ出ていません。

でも、問いのそばにいるほうが、暮らしは静かです。


この記事は、私自身の体験にもとづいて書いています。医学や栄養学の専門家ではありませんので、体調や治療に関わることは、必ずご自身で専門家にご相談ください。

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