石と苔の話|とある谷の言い伝え

むかし、ある谷に、ひとつの大きな石があった。
石は、谷でいちばん高い場所に、ずっと座っていた。
雨の日も、風の日も、雪の日も、ただそこに在った。
谷には、たくさんの生きものが暮らしていた。
せかせかと働く者、声高に正しさを語る者、満たされず欲しがり続ける者、勝ち負けに明け暮れる者。
谷はいつも、何かしらの声でざわついていた。
あるとき、谷に賢い者が現れた。
彼は谷じゅうを回り、生きものたちに言って聞かせた。

お前たちのやり方は間違っている。
こう生きるのが正しいのだ!
正しいことを言っていた。
けれど、誰も、ほとんど変わらなかった。
言われた者は、うなずき、そして元の暮らしに戻った。
賢い者は、だんだん苛立った。

なぜ分からないのだ。お前たちは愚かだ
…と。
そうして谷は、前よりも少し、ざわついた。
賢い者は、やがて谷を去った。
正しさは、谷を変えられなかった。

石は、何も言わなかった。
石は誰にも教えなかった。
誰のことも、愚かだとは思わなかった。
ただ、そこに在った。
雨を受け、風を受け、日を浴びて、ただ、座っていた。
長い時間が流れた。
石の上に、いつからか、苔が生えた。
ほんの少し、北側の、日の当たりにくい窪みから。
苔は急がなかった。広げようとも、しなかった。
ただ、石が在り続けたから、苔も在り続けた。
さらに長い時間が流れた。
苔は、石の半分を、やわらかな緑で包んでいた。
谷の生きものたちは、いつからか、その石のそばで休むようになった。
理由は、うまく言えなかった。
ただ、その石のそばに座ると、なぜか、急いでいた気持ちが、すっとほどけた。
せかせかしていた者は、しばらくぼんやりした。
欲しがり続けていた者は、ふと、もう足りていることに気づいた。
勝ち負けに明け暮れていた者は、勝ち負けのことを、少しのあいだ忘れた。
石は、相変わらず、何も言わなかった。
教えたわけではない。
導いたわけでもない。
ただ、長いあいだ、急がずに在り続けた。
それだけだった。

谷の言い伝えでは、こう語られている。
正しさを説いた賢い者の名は、もう誰も覚えていない。
けれど、あの石のことは、谷の生きものたちが、代々、語り継いだ。
「あの石のそばに座ると、息がしやすくなる」と。
そして、いちばん古い言い伝えには、こう、添えられている。
―― 石は、苔を生やそうとしたのではない。
ただ、在り続けただけだ。
変えようとした者は、何も変えられず、 ただ在り続けた者の上に、苔は生えた。
谷を変えたいと願うなら、谷を変えようとしてはいけない。
ただ、急がず、見下さず、そこに在ること。
あとは、時間が、苔を運んでくる。
