健康は、分かち合いの体力づくり
ボクの友だちは、ちょっと変わった人だ。
朝、静かに呼吸をととのえる。
食べるものを、自分の感覚で選ぶ。
小麦や、植物油や、甘いものと、少し距離を置いている。
化粧品さえ、台所にある麹から自分で作ってみようとしている。
はたから見ると、いわゆる「健康にこだわる人」に見えるんだけど…
でも、そばで見ているボクには、
それがどうも、ふつうの健康法とは違うものに見えるんだ。

「自分のため」だと思っていた
健康って、長いあいだ「自分のためのもの」だと思われてきた。
長生きするため。病気にならないため。きれいでいるため。
ぜんぶ、自分に向かっている。

でもボクの友だちは、いろんな人と関わるうちに、
こんなことに気がついたらしい。
「健康は、自分だけの問題じゃないんだな」って。

最初は、よくわからなかったみたい。
でも、人と気持ちよく関われた日と、そうでない日を、
よくよく観察してみて、わかったみたい。
心と体が疲れ切っていると、目の前に差し出された親切が、なぜか「面倒」に見える。
- せっかくのご縁が、重荷に感じる。
- 感性が、しおれている。
逆に、自分が満ちて、ととのっているとき。
- 同じ親切が、ちゃんと「ありがたいもの」として受け取れる。
- 受け取れるから、お返しもできる。
- あふれた分を、誰かに分けることもできる。
つまり、こういうことだ。
萎えさせないための、手入れ
呼吸をととのえるのも、食べるものを選ぶのも、麹で自分の肌を手入れするのも——
あれはぜんぶ、「自分の感性を萎えさせないための手入れ」なんだ。

ここが、ふつうの健康オタクと、決定的に違うところだとボクは思う。
「体にいいらしいから」で集めた、外から借りてきた情報じゃない。
「自分の感性が、しおれないように」っていう、もっと内側からの動機。
だから続く。
だから、義務にならない。
そして、ここからが大事なところ。
感性がいきいきしている人は、まわりの「味方」にちゃんと気づける。
- 差し出された手を、ちゃんと握れる。
- 受け取って、また誰かに渡せる。
- その人のまわりでは、ありがとうが、よく循環する。
- 満ちている人は、自然と分けはじめる。
だから、満ちているためには——まず自分が、健やかでいないといけない。
健康は「分かち合いの体力づくり」
自分のためであり、同時に、まわりのためでもある。
呼吸も、食事も、手づくりの化粧品も、ぜんぶ、気持ちよく循環し続けるための、地味で大切な土台。
でも、ちゃんとしなくていい日もある
……と、ここまで書いておいてなんだけど。
ひとつだけ、付け足しておきたいことがある。
「健やかでいなきゃ」「ちゃんと手入れしなきゃ」——
この「しなきゃ」が、いつのまにか自分を追い込む鞭になってしまうこと、あるよね。
手入れが義務になった瞬間、それは窮屈になって、かえって感性を縮めてしまう。

本末転倒
だからね。
もし「ちゃんとしなきゃ」が重く感じる日が来たら、そのときは、こう言っていい。
「まあ、今日はちゃんとできなくても、いいか」って。
足るを知る、というのは、「足りている」を知ることだけれど。
それは同時に、「ちゃんとできない自分も、ちゃんと足りている」を、許すことでもある
呼吸を忘れた日も、甘いものを食べてしまった日も、何もする気が起きなかった日も。
それでも、あなたは十分に足りている。

手入れは、自分を責めるための道具じゃない。
自分を、機嫌よくしておくための、やさしい習慣。
機嫌のいい人のまわりには、自然と、いい循環が生まれる。
だから、肩の力を抜いて。
ととのえられる日に、ととのえればいい。それで、十分☺️
